
春が近づいてきました。少し京都嵐山へお散歩。

この日は天気が良く親子連れの方が多かったです。

もっとあったかくなったら船遊びしたいですね。

数年前に大雨で桂川は少し溢れてしまいましたが、今もそうならない為の工事(多分)が続いています。いつまでも嵐山ののんびりとした風景が残り続きますように。
春が近づいてきました。少し京都嵐山へお散歩。
この日は天気が良く親子連れの方が多かったです。
もっとあったかくなったら船遊びしたいですね。
数年前に大雨で桂川は少し溢れてしまいましたが、今もそうならない為の工事(多分)が続いています。いつまでも嵐山ののんびりとした風景が残り続きますように。
今日は天皇誕生日で仕事が休みでした。寒いので家にこもってカメラの説明書を読み込む時間にあてました。
読まなくても写真は撮ることができるのですが、何か便利な機能が発見されることを期待して。
でも夕方までそうやって過ごしていると、やはり写真を撮ってみたくなります。
というわけで、FUJIFILMのX-T30Ⅱとレンズは18-55F2.8-4を持って近くの桂川へ。
標準ズームレンズですね。風景撮る時は広角寄りでF8からF18くらいまで結構絞って撮ります。単焦点レンズはフルサイズ換算の35mm,65mm,135mmなど持っていましたが写真の構図を作る時にやっぱりズームの方が便利なので使わなくなってしまいました。小さいF値でボケ感を多用する撮り方をわたしが好むなら使うと思うのですが、今はそうではないので。単焦点レンズなら一番上のススキの写真とかもっと背景をぼかしてススキをキラキラした感じで撮れるとは思うのですが。
この写真を撮ったX-T30Ⅱを使った感想を少し。カメラの持つ部分、グリップが浅いので持ち運ぶ時の安定感は良くはないです。レンズの胴体部分を持って歩いていました。撮るときは左手の上にカメラを置いてグリップがついている右手は軽く支える程度なので大丈夫なのですが。
あとカメラは寒かったり暑かったり、脳で考えるより先に手を動かして設定を変えなきゃならないので、まだ手に馴染んでないなぁと思いました。今から馴染ませていくのが楽しみ。
なんの変哲もない写真だ。京都の桂川。上野橋の上から五条大橋と西京極総合運動公園の方向を向いて撮影。
写真は後から色味を変えたり、強調したり、ぼかしたり、まあ色々できる。
そしてこの色はある日にわたしが実際に見た景色の雰囲気をかなり忠実に再現している。
昔から不思議に思っていることがある。わたしたちが持つ感覚。例えば甘いとか辛いとか酸っぱいとか。よくもまあこれだけたくさんの人がいて、大体同じ感想を持てるもんだなと。カレーの箱の甘口、中辛、辛口とか人の味覚がみんな揃っているから表示することができているのだろう。
色にしても、わたしが見えている『青』は他の人にはどんな『青』に見えているか非常に興味がある。味覚と同じで大体似ているのか、それとも個人差が激しいのか。
どうしてそんな疑問を持つかといえば、例えば『青色』を言葉で説明する時、例えば辞書を引けば「三原色の一つ。晴れた空の色。」などがある。数字のパラメーターで表現できたり、〇〇の色と言えても、わたしたちの脳が認識している感覚の共有はなかなか難しい。まあ、青色を見て清々しいや、爽やかとか、色に付随するイメージで味覚と同じで大体同じだろうとは思っていますが。
こんな風に感覚に関してかなり曖昧だなと思っていますが、写真に関して言えば、疑いつつも共有していると信じることが大切なのではと考えています。
わたしはこの写真を見て、ああ確かにそこにいたことがあるとしっかりはっきり思うことができる。そういう種類の感動を感じることができる。では他の人はこの写真を見てどう思うのか。
「ああ、どこにでもある普通の風景だね。この写真がどうかしたの?」
が普通だろう。旅行に行った方からとても楽しかったと喋りながら見せられる大部分の写真と同じで、自分がそこに居たか居なかったかで大きくその価値が変動する写真。
それはいい写真なのか?よくない写真なのか?
そんなことを考えていました。
左から、今回新しく購入したFUJIFILMのX-T30Ⅱ、SIGMA fpL、Panasonic S1。
『軽くて、気楽に持ち出せて、最新の機能が備わっているカメラ』というコンセプトで約1ヶ月ほど何を買おうか悶々としておりました。
一番最初に購入したのが一番右のPanasonicのS1というちょっと大きなカメラです。レンズはもっと小さなレンズを取り付けることができるのですが、大きくて重たい望遠レンズは基本的にはこのS1につけっぱなしにしています。
カメラを手に持って撮影する時、カメラの姿勢が安定していなければブレてしまってうまく撮れません。ただブラさないだけならそんなに難しくないのですが、被写体に対して垂直・平行・水平などをしっかりきめて、となるとハードルが上がります。またそのカメラの姿勢をキープすることが、重くて長いレンズを使用する時ほど難しくなります。S1のように右手で持つ部分のグリップが大きいと、カメラの姿勢を保ってブラさないようにすることが簡単になります。
では大きなカメラをひとつ持っておけば大丈夫では?となりますが、毎日持ち歩くにはちょっと大変です。安定感を犠牲にしてでも気軽に持ち歩けるものが欲しくなる。真ん中のSIGMA fpLも十分小さいですが、更に小さいものを・・・と思い、X-T30Ⅱに行きつきました。
朝9時ごろの今出川通り。左側が寺町通りです。北を向いています。
この写真はSIGMAというメーカーのfpLというカメラにPanasonicの24-105 F4というレンズを付けて撮影。
カメラはあとPanasonicのS1というものを使用しています。
あと明日FUJIFILMのX -T30Ⅱというカメラが届く予定。
どうして何種類かカメラを使用するかというと、そのメーカー独自の色の出方であったり、機能であったり、使えるレンズの種類であったり、色々な理由があります。
例えばポートレート、人物を撮る時はPanasonicのS1が一番肌が綺麗に撮れるので好きとか。風景撮る時懐かしい感じの色の出方をするSIGMAのfpLの方が好きとか。
その時々によってその日使いたいカメラとレンズが変わります。
明日届く予定のFUJIFILMのカメラも以前所有していましたが、ちょっと反応が遅いなどの理由で一度売却していました。でも後で写真を見返していて、やっぱりFUJIFILMでしか出せない色があると、またその色で撮りたいという欲求が強くなり。
またそれぞれのメーカーのカメラで撮った写真や好きなところを書いていきます。
おわり。
夜の前、京都御苑の森の上に満月に近い月が浮いていました。
青暗い空を小さく白く切り抜いたようで、とてもきれいでした。
話は変わりまして。わたしは「ほぼ日手帳」というものを愛用しています。スケジュールを管理したり、その日に起こったことを簡単に書き留めておいたり、月齢を見たり、何年生まれの人は今年何歳かすぐに教えてくれたり、とても重宝しております。
そのコンテンツの中でも一番のお気に入りは、その日のページ(1日1ページが割り振られています)の下、ページの6分の1を割いて載せられているちょっとタメになる一文です。
今日のなんてとても面白かった。2月14日バレンタインデーに因んでパティシエの土屋公二さんの一言。
ただいいものを作るという思考はある意味思考停止の手抜きかもしれないと、ハッとしました。
おわり。
最近寒さが落ち着いてきました。
カーテンぼんやり光って風に揺れているのが自分の中の幸せの形の象徴の一つのような気がします。
20代の頃は物欲というものがほとんどありませんでした。友達とかうちに遊びにきてもモノがなさすぎて生活感がないとよく言われていました。
20代はほとんど演劇を作ることに費やしていました。主に演じる方面で。その頃のわたしの脳内には演技のことしかなく。基本的には自分の身体、知識、感覚だけでした、大事で必要なものは。そこにモノが入り込む余地はあまりなく。まるで0からどうにか1を絞り出すような毎日。
自分の身体を利用しての活動でしたら技術や何かを磨くことで欲求が満たされていたのですが。今はモノを利用してイメージした何かを達成するという思考になっていまして。
そしてここが一番難しいところなのですが。自分の身体は一つしかないのでこれをどうにかするしかないのですが。モノは取り替えがきく。アレがダメならこっち、みたいな。一つのモノに向き合い続けることが出来たらいいのですが。すぐに違うもので試してみたくなってしまう。
そうですね。今年の目標は、なるべく一つのモノとしっかり向き合う時間を長く持つというものにしてみます。主にカメラのことですが。
おわり。
先日京都御苑の中で写真撮影していたら、かなり低いところをヘリが飛んでいました。
昔、嵐山をロードバイク担いで散策していたら頭上のすぐ上までヘリが降りてきて、要救助者と間違われてしまったことを思い出しました。
ヘリコプターって普段そんな近寄る機会なんてないので、音とか風とか結構怖いです。はい。
最近ただただお仕事が忙しく、家に帰ってきてからはご飯を食べて、テレビ見て、ちょっとゲームして、本を読んで、寝る、という極めて健全な生活を送っています。忙しい時ほどペースを崩さずただただ無心に生活のリズムを刻んでいくことが好きなので、いい感じです。ただこのいい感じの時は知らないうちにストレスを溜めてしまっていることがあるので気をつけたいです。
おわり。
真四角に閉じ込めてきれいにラッピングして水平や垂直を意識した写真は記録的な雰囲気が強くなり、20年後も30年後もそのまま在るような雰囲気があって、最近はそういうのばかり撮っていました。
でも、ざらっとした感じの少し斜めに写った不安を感じさせるものも好きです。
読んで楽しいのは娯楽小説。読んで不安になるものは純文学という言葉をどこかで見た気がします。
唐突ですが、この前自転車の上で、わたしは今結婚していますが、自分か奥さんどちらかが必ず先に死ぬことになると思うのですが(幸か不幸か事故などに巻き込まれて同時に死なない限り)残された片方はどんな生活を送るのかなと想像していました。
これはもしも起こる最悪の場合でもなんでもなく、必ず起こる、ほぼ100%起こる未来です。
おそらくこのことについてわたしと奥さんが食卓で話すことは近い未来では、しないでしょう。
でも心のどこかでこの必ず起こる未来を受け入れる準備を少しずつやらなきゃいけない気がしています。
純文学の必要性とは、こういうことに通じていると思います。
おわり。