そこに居たか、居なかったかで変動する価値

 なんの変哲もない写真だ。京都の桂川。上野橋の上から五条大橋と西京極総合運動公園の方向を向いて撮影。

 写真は後から色味を変えたり、強調したり、ぼかしたり、まあ色々できる。

 そしてこの色はある日にわたしが実際に見た景色の雰囲気をかなり忠実に再現している。

 昔から不思議に思っていることがある。わたしたちが持つ感覚。例えば甘いとか辛いとか酸っぱいとか。よくもまあこれだけたくさんの人がいて、大体同じ感想を持てるもんだなと。カレーの箱の甘口、中辛、辛口とか人の味覚がみんな揃っているから表示することができているのだろう。

 色にしても、わたしが見えている『青』は他の人にはどんな『青』に見えているか非常に興味がある。味覚と同じで大体似ているのか、それとも個人差が激しいのか。

 どうしてそんな疑問を持つかといえば、例えば『青色』を言葉で説明する時、例えば辞書を引けば「三原色の一つ。晴れた空の色。」などがある。数字のパラメーターで表現できたり、〇〇の色と言えても、わたしたちの脳が認識している感覚の共有はなかなか難しい。まあ、青色を見て清々しいや、爽やかとか、色に付随するイメージで味覚と同じで大体同じだろうとは思っていますが。

 こんな風に感覚に関してかなり曖昧だなと思っていますが、写真に関して言えば、疑いつつも共有していると信じることが大切なのではと考えています。

 わたしはこの写真を見て、ああ確かにそこにいたことがあるとしっかりはっきり思うことができる。そういう種類の感動を感じることができる。では他の人はこの写真を見てどう思うのか。

「ああ、どこにでもある普通の風景だね。この写真がどうかしたの?」

が普通だろう。旅行に行った方からとても楽しかったと喋りながら見せられる大部分の写真と同じで、自分がそこに居たか居なかったかで大きくその価値が変動する写真。

 それはいい写真なのか?よくない写真なのか?

 そんなことを考えていました。

カメラが3台になりました。

 左から、今回新しく購入したFUJIFILMのX-T30Ⅱ、SIGMA fpL、Panasonic S1。

 『軽くて、気楽に持ち出せて、最新の機能が備わっているカメラ』というコンセプトで約1ヶ月ほど何を買おうか悶々としておりました。

 一番最初に購入したのが一番右のPanasonicのS1というちょっと大きなカメラです。レンズはもっと小さなレンズを取り付けることができるのですが、大きくて重たい望遠レンズは基本的にはこのS1につけっぱなしにしています。

 カメラを手に持って撮影する時、カメラの姿勢が安定していなければブレてしまってうまく撮れません。ただブラさないだけならそんなに難しくないのですが、被写体に対して垂直・平行・水平などをしっかりきめて、となるとハードルが上がります。またそのカメラの姿勢をキープすることが、重くて長いレンズを使用する時ほど難しくなります。S1のように右手で持つ部分のグリップが大きいと、カメラの姿勢を保ってブラさないようにすることが簡単になります。

 では大きなカメラをひとつ持っておけば大丈夫では?となりますが、毎日持ち歩くにはちょっと大変です。安定感を犠牲にしてでも気軽に持ち歩けるものが欲しくなる。真ん中のSIGMA fpLも十分小さいですが、更に小さいものを・・・と思い、X-T30Ⅱに行きつきました。

朝の今出川通り

 朝9時ごろの今出川通り。左側が寺町通りです。北を向いています。

 この写真はSIGMAというメーカーのfpLというカメラにPanasonicの24-105 F4というレンズを付けて撮影。

 カメラはあとPanasonicのS1というものを使用しています。

 あと明日FUJIFILMのX -T30Ⅱというカメラが届く予定。

 どうして何種類かカメラを使用するかというと、そのメーカー独自の色の出方であったり、機能であったり、使えるレンズの種類であったり、色々な理由があります。

 例えばポートレート、人物を撮る時はPanasonicのS1が一番肌が綺麗に撮れるので好きとか。風景撮る時懐かしい感じの色の出方をするSIGMAのfpLの方が好きとか。

 その時々によってその日使いたいカメラとレンズが変わります。

 明日届く予定のFUJIFILMのカメラも以前所有していましたが、ちょっと反応が遅いなどの理由で一度売却していました。でも後で写真を見返していて、やっぱりFUJIFILMでしか出せない色があると、またその色で撮りたいという欲求が強くなり。

 またそれぞれのメーカーのカメラで撮った写真や好きなところを書いていきます。

 おわり。

いいものを作るはある意味では思考停止かも。

 夜の前、京都御苑の森の上に満月に近い月が浮いていました。
 青暗い空を小さく白く切り抜いたようで、とてもきれいでした。

 話は変わりまして。わたしは「ほぼ日手帳」というものを愛用しています。スケジュールを管理したり、その日に起こったことを簡単に書き留めておいたり、月齢を見たり、何年生まれの人は今年何歳かすぐに教えてくれたり、とても重宝しております。

 そのコンテンツの中でも一番のお気に入りは、その日のページ(1日1ページが割り振られています)の下、ページの6分の1を割いて載せられているちょっとタメになる一文です。

 今日のなんてとても面白かった。2月14日バレンタインデーに因んでパティシエの土屋公二さんの一言。

 ただいいものを作るという思考はある意味思考停止の手抜きかもしれないと、ハッとしました。

 おわり。

物欲について

 20代の頃は物欲というものがほとんどありませんでした。友達とかうちに遊びにきてもモノがなさすぎて生活感がないとよく言われていました。

 20代はほとんど演劇を作ることに費やしていました。主に演じる方面で。その頃のわたしの脳内には演技のことしかなく。基本的には自分の身体、知識、感覚だけでした、大事で必要なものは。そこにモノが入り込む余地はあまりなく。まるで0からどうにか1を絞り出すような毎日。

 自分の身体を利用しての活動でしたら技術や何かを磨くことで欲求が満たされていたのですが。今はモノを利用してイメージした何かを達成するという思考になっていまして。

 そしてここが一番難しいところなのですが。自分の身体は一つしかないのでこれをどうにかするしかないのですが。モノは取り替えがきく。アレがダメならこっち、みたいな。一つのモノに向き合い続けることが出来たらいいのですが。すぐに違うもので試してみたくなってしまう。

 そうですね。今年の目標は、なるべく一つのモノとしっかり向き合う時間を長く持つというものにしてみます。主にカメラのことですが。

 おわり。

ヘリ

 先日京都御苑の中で写真撮影していたら、かなり低いところをヘリが飛んでいました。

 昔、嵐山をロードバイク担いで散策していたら頭上のすぐ上までヘリが降りてきて、要救助者と間違われてしまったことを思い出しました。

 ヘリコプターって普段そんな近寄る機会なんてないので、音とか風とか結構怖いです。はい。

 最近ただただお仕事が忙しく、家に帰ってきてからはご飯を食べて、テレビ見て、ちょっとゲームして、本を読んで、寝る、という極めて健全な生活を送っています。忙しい時ほどペースを崩さずただただ無心に生活のリズムを刻んでいくことが好きなので、いい感じです。ただこのいい感じの時は知らないうちにストレスを溜めてしまっていることがあるので気をつけたいです。

 おわり。

不安のようなものの必要性

 真四角に閉じ込めてきれいにラッピングして水平や垂直を意識した写真は記録的な雰囲気が強くなり、20年後も30年後もそのまま在るような雰囲気があって、最近はそういうのばかり撮っていました。

 でも、ざらっとした感じの少し斜めに写った不安を感じさせるものも好きです。

 読んで楽しいのは娯楽小説。読んで不安になるものは純文学という言葉をどこかで見た気がします。

 唐突ですが、この前自転車の上で、わたしは今結婚していますが、自分か奥さんどちらかが必ず先に死ぬことになると思うのですが(幸か不幸か事故などに巻き込まれて同時に死なない限り)残された片方はどんな生活を送るのかなと想像していました。

 これはもしも起こる最悪の場合でもなんでもなく、必ず起こる、ほぼ100%起こる未来です。

 おそらくこのことについてわたしと奥さんが食卓で話すことは近い未来では、しないでしょう。

 でも心のどこかでこの必ず起こる未来を受け入れる準備を少しずつやらなきゃいけない気がしています。

純文学の必要性とは、こういうことに通じていると思います。

 おわり。

境界

 今日は境界を撮ってみようと思いました。
 写真を撮る時、もちろん『いいなぁ』と思うものを撮るのですが、それだけだと面白くないので、一つテーマを決めて撮るようにしています。

 境目は分かりやすいもの、控えめなもの、言われないとわからないもの、様々。

 境界線を意識するとちょっとだけ景色が変わって見えました。

 おわり。

 下の画像の上ふたつは最近取り組んでいる、モノを平面的に撮って(街灯はちょっと失敗しているけど)既存の意味が薄れて違う感じや意味がちょっとでも感じられたら・・というもの。

 その下は今の自分が好きな感じのもの。

等価

 1月28日は誕生日でした。44歳です。

 特に変わったこともなく、今日も四角に取り憑かれた感じでした。

 四角の枠の中に収めることは、モノを等価に扱う道に通じるているような気がします。

 対象物の個性が残ったまま価値が揃う。優しい理想論の世界です。