機械に体を馴染ませる。

 今日は久しぶりにPanasonicのS1というカメラを持って出勤した。
 最近SIGMAというメーカーのカメラばかり使っていたから。
 カメラにはたくさんのボダんやダイヤルが付いている。それをパパッと操作できないと撮影が辛気臭いものになるから体に馴染ませとかなきゃならない。カメラに興味が出る前、他の人が持っているカメラを横目で見て、なんでこんなにたくさんの触るとことが付いているんだろう、あんなに付いていて本当に必要なのかな?と思ったことがありますが、必要かなと今は思っています。もしこの物理的に触れる部分が少なかったらメニューボタン押して、このカテゴリーの何ページ目にあったなぁとか思い出しながら探さなきゃならなくて、簡単にいうと時間がかかります。

 1日の終わり、脳の働きも鈍くなる夜の寝る前、頭を空っぽにしてこの機械の塊を持ってちょっと操作すると、なんか車を運転しているようなそんな気分になります。変な例えですが。車を自分の思う通りに動かすことと、カメラを自分が思う写真を撮るために光の加減、被写体との距離、いろんなことを感じてカメラの設定を瞬間的に変更するとことか似ているかも。

最近好きな淡いひかり

最近、淡いひかりに惹かれます。鮮烈でぎらつく光じゃない。真珠の表面にあるうっすらとぼやけたような光。

 輪郭線をぼかす滲んだ光

 ちょっとだけ現実感が薄れてくれる。

 遠い記憶が少しだけ近くなる。昔の少しだけピントが外れたフイルムカメラで撮られてような写真の感じ。

作品に哲学は必要か?

 昨日昔からの知り合いの脚本・演出家の、まあ、元劇団ZTONの河瀬くんですけど、大阪で芝居についてちょっとお酒を飲みながらお話をしていまして。

 わたしは現在演劇をつくってはいません。どこにも属していません。専ら観るだけです。だからはっきり言って全く忖度なく喋ることができます。わたしは人については悪くいうことはないようにしようと思っていますが、作品の感想については例え酷い言葉を使おうと嘘だけはつかないように心がけています。

 今日はわたしが演劇作品が良かったどうか、どんなことで決めているのか少しお話ししてみます。

 まず、映像化された舞台でない限り、記憶を辿ってその演劇作品をもう一度味わって感想を言葉にしようとします。

 この時一番最初に思い出すのは「余韻」です。観終わった後のまだ言葉にならない、整理できていない心の感じ。この余韻が全てだと思っています。余韻が好ましいものであればわたしにとっては良い作品ですし、逆に余韻が後味悪く感じるものであったり、余韻そのものがなかったりした作品はわたしにとっては悪い作品です。

 胸が熱くなってしばらく席から立ちたくないとか、わたしにとっては最高の余韻です。そんな作品に一年に1回でも出会えれば、それはもうとても幸福なことです。

 そのくらい揺さぶってくれる作品はやっぱり生き方に関わってくるものが多いと思います。生き方とはつまり哲学です。哲学がない、例えば物語を面白くみせる為のテクニックや仕掛けがメインの作品などには心が動くことはありません。あー、そうひっくり返るんだ、なるほどーという感想です。

 わたしはいつだって揺さぶられたいので、作品に哲学は必要だと思います。

 今日の日常の一コマを添えて。

エキストラ、哲学、など。

 今日は朝5時半に起床し、6時半の電車に乗って8時に大阪NHKの入口に集合してロケバスに乗り、山奥での撮影にエキストラとして参加してきました。時々頭数合わせてお声がかかります。ありがたいことです。退屈でもないですが、平穏な日常にちょっとしたスパイスが加わる感じで。『あー、あの番組、こんな感じで作られていたんだ』とか『えー、この部分台本あると思ったのにみなさんアドリブで喋っているんだ』とか、第一線のプロのボキャブラリー、機転の利かせ方とか勉強になることばかりでした。

 また放映される日とか分かればお知らせするかも。

 その後、夕方5時半にまた大阪のNHKに戻ってきて解散。

 帰り道、阪急高槻市で下車して10年以上交流のある演出家の方とお酒を飲みながら少し演劇のお話を。

 彼は言いました。「哲学のない作品は面白くないですよね?」

 わたしはどこかの本で読んでいました。「哲学のない文章は面白くない。読者は物語を読みたいのではない。哲学を読みたいのだ。」

 生き方に全く影響しない作品というものは無価値に等しい。

 そもそも哲学がない演劇作品とは何か?物語をより面白く感じてもらうための仕掛けがメインの作品です。その時は面白く見ることができる。ですが、その後に印象に残ったシーンなどを思い出して反芻しようとしても、仕掛けのみが思い出されて肝心の内容が、ない。そういう印象を受けることが多いです。哲学がない作品には。

 哲学が作品の根底に流れている作品は人生の中の何かの拍子に登場人物のセリフが突然思い出されたり、後々まで自分の人生に影響を与えてくれる気がします。

日展へ。

 今日は京都市京セラ美術館へ、第8回日展京都展を鑑賞しに行きました。

 まだ衝撃が強すぎて感想が言葉になりません。

 言葉に変換される前の感触をしばらく味わおうと思います。

 1月15日まで。

結局1998年頃から変わってないのかもね

 本日は1月8日土曜日。京都は昨日までの寒さがすごし和らぎ日中は過ごしやすい気候でした。寒いけど。

 そして一旦落ち着いていたコロナ感染者数がまた急激に増えていて、この先一体どうなるのだろうという感じはちょっとはあります。

 わたしは大学に入学したのが1996年で、1998年にWindows98が出ましたから丁度パソコンというものが学生にも普及し始めた頃でした。大学の講義でも情報の取捨選択の重要性を先生方はよくお話しされていた。インターネットを使って世界中の情報を時間差無しで得ることできる時代が来たと。無数の情報の中から正確で重要な情報だけを抽出することが大切だと。

 その話を聞いていた時わたしは思ったのです。世間話レベルの話題ならば色んな話があって当然だろう。でもとても大切な話題の時は、その分野のスペシャリストがしっかり表に出てきて正確な情報をわたしたちに教えてくれるはずだ、と。

 すみません先生。やっぱり自分で探すしかなかったです。

(写真は今日ちょっといい感じの撮れたので、いい感じに並べただけです。意味はありません。)

 

 

写真とワイン

 カメラを使い始めてまだ1年半くらい。この機械を思い通りに使いこなすことができたならばさぞ楽しいだろうと、でもなかなか思い通りにならない不確定要素があるからこう飽きずに写真を撮る行為が続いているのだろうとも思っている。

 写真は人の記憶に密接に結びつく。記憶と写真の関係は、葡萄とワインの関係に似ていると思う。素晴らしいワインは葡萄そのものよりも葡萄らしさを感じることがある。変な話だが。曖昧な脳内の記憶が写真という物質となった時、記憶以上の記憶となったと感じる場合がある。本当に変な話だが。

 例えばこの電気ストーブの写真。今もわたしの目の前にあるが、わたしの目が捉えている絵と写真の絵は違う。実物はもっと薄い感じだ。写真の絵は何か意味深だ。そして写真の絵の方が寒い室内を静かにほんのり暖かくしてくれている感じがするので、そのように撮った。実物が持つ様々な要素の中からわたしが残したい要素だけをなるべく残し、強調したい部分をほんの少し強めたら、こうなった。つまり凝縮させた。

 ん。ならば表題は写真とワインではなくて、写真と濃縮ジュース。あ、濃縮ジュースの方がしっくりくる気がする。ワインと書いてしまったのはカッコつけたかったから?ジュースだ。ジュースがいい。

特別な時間

 会社の昼休み。買った弁当を入れる予定のエコバックにカメラを忍ばせて会社の外に出る。特に面白くもなんともないただの昼ごはんを買いに行く道中がカメラ一つで特別な時間になる。

SIGMA fpL

 スマホのカメラでもいいが、本格的なカメラの方がよりちょっと特別な違う時間感を演出してくれる(なんか嘘くさい陳腐な宣伝みたいだ。)。

 大きいカメラは必要ない。いや、大きすぎるとカメラ、撮影行為が主役になり過ぎてしまう。あくまでも『お昼ご飯を買いに行くついで』感が大切なのだ(なんか今日の語り口、ぞわぞわするな・・)。ついでの時間の肩の力が抜けた感じの写真がわたしの目指すところだ(の割に、冒頭の写真は力が抜けた感が全くないのだけど・・)。

 上の写真はスマホで撮影したもの。正直、カメラとスマホの写真の違いを見分けることはわたしにはできない。

 それでも昼休み、わざわざカメラをわたしは持ち出すのだろう。なんでもない時間をちょっとでも面白くするために。

初詣

巨大絵馬

 実は去年初詣には行っていません。コロナ禍で行くタイミングが掴めず。だから今年古い破魔矢を納めに行ったのですが絵馬には『令和二年』と『ねずみ』が描かれていました。つまりウチには令和三年中ずっと『牛』ではなくて『ねずみ』の絵馬が置いてあったのです。宮司さんにお渡しする時どんな顔されるのか見るのがこわくて、お渡ししてすぐに背を向けてしまいました。

 玄関に置いてある年度が違う絵馬を見てバチが当たらないだろうか?悪いことが起こらないだろうか?と少しだけ心配になっていましたが、お金を払わなかったから当たるバチはない、当てる神ならばそれは邪神というところで落ち着きました。

 ただ神社など特別な空間を維持する為にたくさんのお金が必要だとは聞いたことがあります。なので多少なりのお力添え(破魔矢代2500円ですが)ができなかったことには少しモヤモヤしていましたが、今年はスッキリしました。

 またこのような場所で頂くお団子などはとてもおいしく感じます。ああ美味しい、来年も元気にまた来ます、また食べに来ます。だから今年をなるべく元気に健やかに乗り切ろうと思います。ありがとうございました。

20年後等価理論

うちのベランダから撮った風景

 この写真は、嵐山へ写真を撮りにいこうと思い外の天気を見るためにベランダへ出たら小雨が降っていたので外出することをやめて、でも写真を撮る気分は高まっていたので部屋に戻ってカメラを取ってきてベランダから1枚だけ撮影したものです。

 僕に外出することを完全にやめさせるに足る、どんよりした雰囲気が写っていました。わたしに心の余裕があったならば左の屋根が写り込んでいない写真、写り込んでいるが少し被写体から離れている写真、もっと重なっている写真など撮ってどれを採用しようかちょっと悩む幸せな時間を持つことができたでしょう。

 わたしは最近日常のなんでもない風景をちゃんと撮影し残していこうと思っています。

 どうしてかというと、例えば20年後に写真を見返すとき、例えば嵐山の渡月橋を美しく撮った写真とちょっと散らかった生活感のあるうちの中を撮った写真、どちらに心が動かされるかというと、多分どちらにも同じくらい心が動く気がするのです。だから、ただ外の天気が悪いからだけではなく、20年後にこのベランダから撮った写真と外出して撮った写真の価値が等しくなってしまったので、わざわざ外出する価値はないと判断した、無意識に、と言えます。そして、これはすごい屁理屈が誕生した瞬間かもしれません。20年後等価理論。いろんな言い訳に使えそうだ。こわい。

 ただ、20年後にこの写真を見て『そういえば、外がどんよりした雰囲気で、嵐山に写真撮りにいくのやめたんだよなぁ』と昨日のことのように心の動きを思い出させてくれたら、それは素敵なことだと思います。