今日も京都御所の中で朝写真撮っていました。
今出川通りを挟んでお向かいには同志社女子大学のキャンパスが見えます。
レンガ作りの建物。
落ち葉。
木と空のコントラスト。
今日も京都御所の中で朝写真撮っていました。
今出川通りを挟んでお向かいには同志社女子大学のキャンパスが見えます。
レンガ作りの建物。
落ち葉。
木と空のコントラスト。
カメラは毎日、土砂降りの雨の時以外は持って出る。
上の写真は会社に行くためにバスを待っている間、目の前の空の雲と朝日の具合がよかったので。
バスを降りて会社までの10分くらいの道のり。
わざと大通りを避けて京都の細い路地裏を歩いてみる。
毎日カメラを持って歩く理由は、退屈しのぎです。
会社までのただの退屈な道のりが、カメラ持っているだけで『遊び』になる。
昨日は神戸アートビレッジセンターKAVCホールで努力クラブ第14回公演
『救うか殺すかしてくれ』脚本・演出 合田団地
を観劇しました。
主役は西マサトさんだった。
ぼくは5年ほど前、ご近所さんが開催したクリスマスパーティーだったと思う(この画像のデータの日付が12月後半だったので)、そこで一度だけ西さんとお会いしてお話したことがある。
写真から伝わると思うが、とても腰が低く、とても周りに気を使っておられて、そしてとってもキュートな方だった。
西さんがこの会で披露されたドラゴンボールの栽培マンのマイムのクオリティはとてつもなかった。また観たい。心の底から観たい。YouTuberに転身されたら必ず登録します。
とにかく、この日ぼくは心をわし摑みされた。
それからしばらくして、西さんのTwitterアカウントを発見した。
当然、フォローした。
しかし、西さんのつぶやきは毎回とてつもなくネガティブな、バイト先のグチとか、横柄な客へのグチとか、まあ、あと死○たいとか、TLに流れてきて目に入る度にこちらのテンションを下げるものだった。
とっても面白くて、とってもキュートな西さんからは想像できないツイートが垂れ流されていた。
久しぶりに西さんのTwitter見てみたら、フォロー外しているどころか、ミュートまでしていた。そういえば、当時役者仲間のHIROFUMIくんが多分職場で上司にパワハラを受けていて『俺は悪くない俺は悪くない俺は悪くない』という繰り返しの呪文だけツイートしていて、とりあえず自分の精神を守る為にお二人まとめてミュートにしていた気がする。
今回の作品。西さんが演じるキャラクターの名前も『西マサト』だった。
劇中の西氏は孤独の中で、孤独を埋めようと、妄想と現実の女の子の狭間でもがき苦しんでいた。
その孤独を埋める為に女の子にあの手この手で見てもらおうとする、気にかけてもらおうとする、引き留めようとする様がとてもいやらしくて、少し醜くかった。そして昔のいやな自分と根っこは同じだなぁと共感しながら観ていた。
ぼくはTwitter上で色んな孤独からくる雄叫びを見ていて、tweetする理由が実際のところよく分かっていなかった。深く考えたり寄り添おうとする気持ちがなかった。だからミュートにしていた。
でも今回の作品で、何かのきっかけが得られたような気がするし、ミュートにする自分を少し恥じた。でもぼくは嫌だったらやっぱりミュートにするけど。この作品に触れることができて、自分が少しだけど柔くなった気がする。それが錯覚であっても、何か目を塞いだり耳を覆いたくなる時に、自分が柔らかくなればいい感覚を教えてもらった気がする。
国王をフォローしなおした。
最近の国王のツイートにはネガティブ発言はなかった。
国王、合田くん、関係者の皆さま、すばらしい作品をありがとうございました。
今日もこのブログを覗いてくださってありがとうございます。
仕事帰りの京都御所。17時30分ごろ。半月が見えた。
散水用の設備のシルエット。
線香花火を思い出すんです。
ではまた。
晩御飯を食べ終わったら、3、40分運動をして、パソコンやカメラを触りながらまったりとした時間を過ごす。
家の中の小物を手元に持ってきて、あーでもない、こーでもないと写真を撮る。
全く文章を書かない日でも、カメラだけは触っている。
他のレンズが目に入ると意味なく付け替えたくなる。
そしてまた何かを撮る。
他のレンズも試したくなる。
沼だなぁ。
シャッターを切るとき、なるべく垂直平行を、必要な時はとろうと努力はしている。
ファインダーを覗いている時に、垂直平行が取れているかガイドが出る設定にすることもできるが、それを利用しようとすると、今自分が撮影しようとしている対象物ではなくて、そのガイドばかり気になってしまって、使うのをやめてしまった。
もうちょっとくらい歪んでいてもいいやと思っている。
でも、微妙に歪んでいる写真ほど、ちょっと自分の中の平衡感覚が狂いそうで気持ち悪くなる。
右肩下がりになったり左肩下がりになったり。
現像して、『あー、もうっ』
ってなる。
消したり、ソフトで修正するのは簡単だ。
でも、撮った時の自分を思い出してみる。
上の写真は、近くに同じように写真撮っている方がいて、早くどかないとそのかたに悪いなぁと焦ってしまったり、一生懸命ファインダーを力んで覗き込んで頭が右に下がっていた気がする。その時の自分の状態が写真に表れている。
下の写真はちょっと落ち着いて平行をとろうと風景の中にガイドを探して中央付近ばかり気にして、下の方が確認できていなかった。一歩前に進んでいたら解決していたかもしれない。違う問題がまた出たかもしれない。
失敗した写真を眺めて、そんな風に楽しんでいます。
今日は少し東の方に用事がありましたので、南禅寺水路閣あたりを少し歩いてきました。
京都市地下鉄東西線蹴上駅。初めて降りた。日の丸の旗を背負った象のアートがお出迎えだ。近くに京都市国際交流会館があるからだろうか?あと京都市動物園も近いし。今日は行かなかったが、京都国立近代美術館や平安神宮も近い。
今日は上記のルートを行きました。
蹴上駅を出てまず目に入るのが、古い線路跡。初めてみるとびっくりしますよ。
『え?なんでみんな線路の中歩いてるん?』
心配性のぼくはしっかり立て看板を確認して、ここは人が歩いていいか確認して侵入。桜の木がたくさん植っていましたので春また来たいと思いました。
京都の動脈。
こういう構造物を拝見すると、今のぼくらの生活に不自由が少ないのは昔の方々の頑張りがあるからだと再認識します。
最近サビが好きです。
そして、目的地の南禅寺水路閣です。
1888年、明治21年に完成した水路橋。南禅寺境内を通過するため周辺の景観に配慮したデザインになっているとのこと。
133年間で醸された風格は素晴らしいです。
ノスタルジーに浸れる場所で呼吸したいという欲求が十分に満たされました。
暗い気持ちを少し癒そうと花屋さんによってゼラニウムを買った。
今たくさん咲いているものではなく、これから咲きそうな蕾をたくさんつけたモノを選んだ。
緊急事態宣言が出された影響はやっぱりある。
身近なことで言えば、ぼくは今月誕生日なのですが、奥さんと一緒に食べに行こうと言っていたお店へ足を運ぶのは控えることにして、代わりにそのお店のお取り寄せができるカニ鍋セットを注文して家で食べることにした。
お店の中でゆっくりくつろぎながら食べる方が美味しいのは分かっている。単純に味わう為だけなら夜8時までに行って食べる。あのお店のあの料理が食べたい!という理由なら、ルールを守って行く。だけど、自分の誕生日を『祝う』という理由は何となく我が強く出過ぎている気がして、制限された中で無理してお祝いムード作ってもあまり楽しめない気がしてしまった。
『祝われなかったら、ぼくの自己肯定感が激減し、明日から楽しく生きる自信がない』メンタルだったら、もうこれは必要緊急事項なのでルールの範囲内で外で楽しみますが。
寂しい場所で写真を撮ることは全ての制限を全てクリアーしています。もう何も心配しなくていい、誰にも気を使わなくてもいい、とっても精神衛生的にいいです。最高にオススメです。
人気が少ない方へ、少ない方へ。
ではまた明日。
気分が明るい人は少ないでしょう。
悲しいどんよりした気分の時に思い出すのは、詩人の中原中也です。
『ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよーん』
サーカス小屋で空中ブランコが揺れる様をこんな音で彼は表現しました。
悲しくて暗い音ですね。大体こんな感じです。弱っている人に中也の詩は優しく寄り添ってくれる気がします。
その中原中也は、自分の愛する人を亡くした時、テンポ正しく握手をしましょう。握手をしましょう。それでも悲しみが消えない時は、死ななきゃなりません。と、言っていた。
悲しい時、苦しい時は、テンポ正しく握手をしましょう。
テンポ正しく他の方と接していたら、救ってくれる。悲しい時も、苦しい時も、テンポ正しく社会と世間と夜ちゃんと眠って、朝日がのぼるのに合わせて起きて、世間と歩幅が合わずに孤独を感じたり、置いていかれている感じを受けたとしても、テンポ正しく行きましょう。
理由ははっきりとは分かりませんが、夜の方が間違いが起きやすいからだと今は説明させてください。夜、最高の考えが浮かんだり、全能感を得たりする錯覚を覚えることがあるかもしれませんが、
ホルモンバランスが崩れると、めっちゃ髪の毛抜けます。
1年くらい日勤夜勤が繰り返されるパナソニック系の工場で派遣社員で働いたことがあるのですが、風呂の浴槽に浮かぶ自分の髪の毛にドン引きしていました。
だから、全てはホルモンの為に、規則正しく生きてみましょう。
ではまた明日。
今朝も変わらず寒かったですね。通勤途中の京都御所内にも霜が降りていました。
霜に朝日が当たってとてもきれいでした。
写真を見続けていると、目が触覚のようになってくる気がします。
『見ている』
というより
『触っている』。
指先でモノを触って味わうように、目で触る。
あれです。香木とか香りを嗅ぐのではなくて、聴くと言いますが、たぶん人間は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の未分化部分が感覚の根っこの部分にあり、深く感じ取ったものは五感全てで共有しようとして、上記のような言葉がでてくるのでしょう。
触るように写真を撮ってみるのも面白いかもしれません。
帰り道に、ちょっとかわいい感じのえんとつ見つけた。
この時までは楽しい気分だった。
でも家に帰って緊急事態宣言を聞くと、まあ、重たい気分になった。
ではまた明日。