『救うか殺すかしてくれ』感想。

 昨日は神戸アートビレッジセンターKAVCホールで努力クラブ第14回公演
『救うか殺すかしてくれ』脚本・演出 合田団地
を観劇しました。

 主役は西マサトさんだった。

ぼくは5年ほど前、ご近所さんが開催したクリスマスパーティーだったと思う(この画像のデータの日付が12月後半だったので)、そこで一度だけ西さんとお会いしてお話したことがある。

写真から伝わると思うが、とても腰が低く、とても周りに気を使っておられて、そしてとってもキュートな方だった。

西さんがこの会で披露されたドラゴンボールの栽培マンのマイムのクオリティはとてつもなかった。また観たい。心の底から観たい。YouTuberに転身されたら必ず登録します。

とにかく、この日ぼくは心をわし摑みされた。

それからしばらくして、西さんのTwitterアカウントを発見した。

当然、フォローした。

しかし、西さんのつぶやきは毎回とてつもなくネガティブな、バイト先のグチとか、横柄な客へのグチとか、まあ、あと死○たいとか、TLに流れてきて目に入る度にこちらのテンションを下げるものだった。

とっても面白くて、とってもキュートな西さんからは想像できないツイートが垂れ流されていた。

久しぶりに西さんのTwitter見てみたら、フォロー外しているどころか、ミュートまでしていた。そういえば、当時役者仲間のHIROFUMIくんが多分職場で上司にパワハラを受けていて『俺は悪くない俺は悪くない俺は悪くない』という繰り返しの呪文だけツイートしていて、とりあえず自分の精神を守る為にお二人まとめてミュートにしていた気がする。

今回の作品。西さんが演じるキャラクターの名前も『西マサト』だった。

 劇中の西氏は孤独の中で、孤独を埋めようと、妄想と現実の女の子の狭間でもがき苦しんでいた。

 その孤独を埋める為に女の子にあの手この手で見てもらおうとする、気にかけてもらおうとする、引き留めようとする様がとてもいやらしくて、少し醜くかった。そして昔のいやな自分と根っこは同じだなぁと共感しながら観ていた。

ぼくはTwitter上で色んな孤独からくる雄叫びを見ていて、tweetする理由が実際のところよく分かっていなかった。深く考えたり寄り添おうとする気持ちがなかった。だからミュートにしていた。

でも今回の作品で、何かのきっかけが得られたような気がするし、ミュートにする自分を少し恥じた。でもぼくは嫌だったらやっぱりミュートにするけど。この作品に触れることができて、自分が少しだけど柔くなった気がする。それが錯覚であっても、何か目を塞いだり耳を覆いたくなる時に、自分が柔らかくなればいい感覚を教えてもらった気がする。

国王をフォローしなおした。

最近の国王のツイートにはネガティブ発言はなかった。

国王、合田くん、関係者の皆さま、すばらしい作品をありがとうございました。

本日の京都御所の夕暮れ

SIGMA sd Quattro H 35mmF1.4

今日もこのブログを覗いてくださってありがとうございます。

仕事帰りの京都御所。17時30分ごろ。半月が見えた。

散水用の設備のシルエット。

線香花火を思い出すんです。

ではまた。


ゼラニウムと花用の霧吹き

SIGMA sd Quattro H 35mm1.4DG
SIGMA sd Quattro H 35mm1.4DG

晩御飯を食べ終わったら、3、40分運動をして、パソコンやカメラを触りながらまったりとした時間を過ごす。

家の中の小物を手元に持ってきて、あーでもない、こーでもないと写真を撮る。

全く文章を書かない日でも、カメラだけは触っている。

他のレンズが目に入ると意味なく付け替えたくなる。

そしてまた何かを撮る。

他のレンズも試したくなる。

沼だなぁ。

失敗をたのしむ

シャッターを切るとき、なるべく垂直平行を、必要な時はとろうと努力はしている。

ファインダーを覗いている時に、垂直平行が取れているかガイドが出る設定にすることもできるが、それを利用しようとすると、今自分が撮影しようとしている対象物ではなくて、そのガイドばかり気になってしまって、使うのをやめてしまった。

もうちょっとくらい歪んでいてもいいやと思っている。

でも、微妙に歪んでいる写真ほど、ちょっと自分の中の平衡感覚が狂いそうで気持ち悪くなる。

右肩下がりになったり左肩下がりになったり。

現像して、『あー、もうっ』

ってなる。

消したり、ソフトで修正するのは簡単だ。

でも、撮った時の自分を思い出してみる。

上の写真は、近くに同じように写真撮っている方がいて、早くどかないとそのかたに悪いなぁと焦ってしまったり、一生懸命ファインダーを力んで覗き込んで頭が右に下がっていた気がする。その時の自分の状態が写真に表れている。

下の写真はちょっと落ち着いて平行をとろうと風景の中にガイドを探して中央付近ばかり気にして、下の方が確認できていなかった。一歩前に進んでいたら解決していたかもしれない。違う問題がまた出たかもしれない。

失敗した写真を眺めて、そんな風に楽しんでいます。

南禅寺水路閣

今日は少し東の方に用事がありましたので、南禅寺水路閣あたりを少し歩いてきました。

京都市地下鉄東西線蹴上駅。初めて降りた。日の丸の旗を背負った象のアートがお出迎えだ。近くに京都市国際交流会館があるからだろうか?あと京都市動物園も近いし。今日は行かなかったが、京都国立近代美術館や平安神宮も近い。

今日は上記のルートを行きました。

蹴上駅を出てまず目に入るのが、古い線路跡。初めてみるとびっくりしますよ。

『え?なんでみんな線路の中歩いてるん?』

心配性のぼくはしっかり立て看板を確認して、ここは人が歩いていいか確認して侵入。桜の木がたくさん植っていましたので春また来たいと思いました。

京都の動脈。

こういう構造物を拝見すると、今のぼくらの生活に不自由が少ないのは昔の方々の頑張りがあるからだと再認識します。

最近サビが好きです。

そして、目的地の南禅寺水路閣です。

1888年、明治21年に完成した水路橋。南禅寺境内を通過するため周辺の景観に配慮したデザインになっているとのこと。

133年間で醸された風格は素晴らしいです。

ノスタルジーに浸れる場所で呼吸したいという欲求が十分に満たされました。

人気が少ない方へ。

暗い気持ちを少し癒そうと花屋さんによってゼラニウムを買った。
今たくさん咲いているものではなく、これから咲きそうな蕾をたくさんつけたモノを選んだ。

緊急事態宣言が出された影響はやっぱりある。
身近なことで言えば、ぼくは今月誕生日なのですが、奥さんと一緒に食べに行こうと言っていたお店へ足を運ぶのは控えることにして、代わりにそのお店のお取り寄せができるカニ鍋セットを注文して家で食べることにした。

お店の中でゆっくりくつろぎながら食べる方が美味しいのは分かっている。単純に味わう為だけなら夜8時までに行って食べる。あのお店のあの料理が食べたい!という理由なら、ルールを守って行く。だけど、自分の誕生日を『祝う』という理由は何となく我が強く出過ぎている気がして、制限された中で無理してお祝いムード作ってもあまり楽しめない気がしてしまった。

『祝われなかったら、ぼくの自己肯定感が激減し、明日から楽しく生きる自信がない』メンタルだったら、もうこれは必要緊急事項なのでルールの範囲内で外で楽しみますが。

寂しい場所で写真を撮ることは全ての制限を全てクリアーしています。もう何も心配しなくていい、誰にも気を使わなくてもいい、とっても精神衛生的にいいです。最高にオススメです。

人気が少ない方へ、少ない方へ。

ではまた明日。

緊急事態宣言後

気分が明るい人は少ないでしょう。
悲しいどんよりした気分の時に思い出すのは、詩人の中原中也です。

『ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよーん』
サーカス小屋で空中ブランコが揺れる様をこんな音で彼は表現しました。
悲しくて暗い音ですね。大体こんな感じです。弱っている人に中也の詩は優しく寄り添ってくれる気がします。

その中原中也は、自分の愛する人を亡くした時、テンポ正しく握手をしましょう。握手をしましょう。それでも悲しみが消えない時は、死ななきゃなりません。と、言っていた。

悲しい時、苦しい時は、テンポ正しく握手をしましょう。

テンポ正しく他の方と接していたら、救ってくれる。悲しい時も、苦しい時も、テンポ正しく社会と世間と夜ちゃんと眠って、朝日がのぼるのに合わせて起きて、世間と歩幅が合わずに孤独を感じたり、置いていかれている感じを受けたとしても、テンポ正しく行きましょう。

理由ははっきりとは分かりませんが、夜の方が間違いが起きやすいからだと今は説明させてください。夜、最高の考えが浮かんだり、全能感を得たりする錯覚を覚えることがあるかもしれませんが、

ホルモンバランスが崩れると、めっちゃ髪の毛抜けます。

1年くらい日勤夜勤が繰り返されるパナソニック系の工場で派遣社員で働いたことがあるのですが、風呂の浴槽に浮かぶ自分の髪の毛にドン引きしていました。

だから、全てはホルモンの為に、規則正しく生きてみましょう。

ではまた明日。

緊急事態宣言聞く前までの

今朝も変わらず寒かったですね。通勤途中の京都御所内にも霜が降りていました。

霜に朝日が当たってとてもきれいでした。

写真を見続けていると、目が触覚のようになってくる気がします。
『見ている』
というより
『触っている』。

指先でモノを触って味わうように、目で触る。

あれです。香木とか香りを嗅ぐのではなくて、聴くと言いますが、たぶん人間は視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の未分化部分が感覚の根っこの部分にあり、深く感じ取ったものは五感全てで共有しようとして、上記のような言葉がでてくるのでしょう。

触るように写真を撮ってみるのも面白いかもしれません。

帰り道に、ちょっとかわいい感じのえんとつ見つけた。

この時までは楽しい気分だった。

でも家に帰って緊急事態宣言を聞くと、まあ、重たい気分になった。

ではまた明日。

雪。

京都は雪も降って寒い日が続きますね。あまりに寒いのでダメ着ってものを買おうか本気で悩んでます。ツナギみたいになっていて、最新のはヒーター内臓されています。1万円ちょっとだって。

京都も明日には緊急事態宣言が出されるみたいで。劇場関係にも制限がありそうです。

僕が一番恐ろしいのは医療崩壊して命の選別もしくはそれに準ずるものが行われる世界が来ることです。

そういう世界にならないように、自分ができることをやりたいのですが。

気を抜くと思考を停止させて、時間が解決してくれるなどなど、日々の生活や仕事の方に集中してしまって、自分は大丈夫なんじゃないか?という根拠のない楽観的な気持ちになってしまいます。

歴史を振り返ってみて、とてつもない危機的状況でよくその時代に生きていた人たちは普通に生活できてたなぁ、本当かな?と訝しんだことがありますが。例えば、戦争の暴力がすぐそこまできているのに、いつも通り畑を耕して日々の生活を続けようとされていたり。どうして逃げなかったのか?など。

人はそう簡単に自分の生活、その土地から簡単に離れることができないんだなと、噛み締めています。

本当に難しい日々ですね。

『観に行かない理由』

昨日喫茶店で少し演劇に関してお話しする機会がありました。

その中で、どうしたら観客が増えるか?というお話に話題は移りました。

その時はあまりはっきりと言葉にならなかったのですが。家に帰って少し考えてみました。

僕自身一観客の立場からの発言になりますが、観客動員数を伸ばす一番大事にすべきことは『観に行こうか、どうしようか、迷っている』方達が一人でも多く足を運んでもらう確率を上げることだと思っています。

これは、自分が既にファンになっている劇団は特に宣伝などなくても観にいくのですが、そんな劇団は1つか2つで、他の大多数の観劇は初めて観にいったり、チラシやタイトルが気になったり『観に行こうか、どうしようか少し迷って』何か自分でも上手く説明できないちょっとした理由で足を運ぶからです。でも『足を運ばない』理由は考えてみると、共通していることがあります。

いくつか大事だと思っていることを。

タイトルはシンプルに。
読み方が分からなかったり、意味が分からなかったら、もうそれだけで確実に何%か観客減ります。多分作り手が頭良過ぎたり、他との差別化を図ろうと思ったり、おそらく深淵な理由があると思うのですが、シンプルに意味や読み方が分からないタイトル掲げられると『あ、お金払って意味不明の作品を見せつけられるかも・・』という恐怖心を僕は持ってしまいます。実際は、そういう難しいタイトルの作品ほど内容なシンプルでとても分かりやすかったりすることが多いのですが、『観に行こうか、どうしようか』迷っている心理状態の時の自分はちょっとしたマイナスで『じゃあ、今回は観なくていいや』となります。

チケット代金はシンプルに。
少しでもチケット収入を高めようとするのは分かります。分かりますが、色々オプションがついたり席によってチケット価格が異なる売り方されていると、ファンの方は初日は前の方の席でこのオプション付けて、あと残りのステージはノーマルの席と買い方でいいかとか、そういう買い方をすると思いますが、観客動員数を大きく左右する、近い未来コアなファンになってくれるかもしれない方達が沢山いらっしゃる『今回観に行こうかどうか迷っている』方達にとっては、『え?何これ?ふつーにチケット買っても楽しめへんの?こんだけマックス課金しなきゃこの作品堪能できひんの?じゃあ、なんかなんか面倒だし、今回観なくていいや』と思う可能性があると思っています。少なくとも僕はなります。

アフタートークなど、観客と接する時のスタンス
僕はこれは結構気にする方です。アフタートークはプレゼンデーションの時、企業が顧客の方々に行う場合、例えば社内の人間を呼ぶとき、『何々ちゃん』とかあだ名とかで呼ぶことは絶対にありません。僕が知っている限りでですが。あってもあえてです。これはコアな客層に受けるかもしれませんが、初めて足を運んだり、ちょっと気になっているからプレゼン聞いてみようと思う劇団がこれをやっていたら『あ、身内だけの狭い範囲で演劇活動されているのかな。友達にしかみせていないのかな?』と本当はそうでなくても、そういう風に僕自身は感じてしまいます。

ここまで書いてきて、『ああ、僕は心が狭いなぁ』となり、苦しくなってきました。

でもいつまでも末長くファンでいたい劇団や集まりをいつも求めているのは確かです。