物欲について

 20代の頃は物欲というものがほとんどありませんでした。友達とかうちに遊びにきてもモノがなさすぎて生活感がないとよく言われていました。

 20代はほとんど演劇を作ることに費やしていました。主に演じる方面で。その頃のわたしの脳内には演技のことしかなく。基本的には自分の身体、知識、感覚だけでした、大事で必要なものは。そこにモノが入り込む余地はあまりなく。まるで0からどうにか1を絞り出すような毎日。

 自分の身体を利用しての活動でしたら技術や何かを磨くことで欲求が満たされていたのですが。今はモノを利用してイメージした何かを達成するという思考になっていまして。

 そしてここが一番難しいところなのですが。自分の身体は一つしかないのでこれをどうにかするしかないのですが。モノは取り替えがきく。アレがダメならこっち、みたいな。一つのモノに向き合い続けることが出来たらいいのですが。すぐに違うもので試してみたくなってしまう。

 そうですね。今年の目標は、なるべく一つのモノとしっかり向き合う時間を長く持つというものにしてみます。主にカメラのことですが。

 おわり。

ヘリ

 先日京都御苑の中で写真撮影していたら、かなり低いところをヘリが飛んでいました。

 昔、嵐山をロードバイク担いで散策していたら頭上のすぐ上までヘリが降りてきて、要救助者と間違われてしまったことを思い出しました。

 ヘリコプターって普段そんな近寄る機会なんてないので、音とか風とか結構怖いです。はい。

 最近ただただお仕事が忙しく、家に帰ってきてからはご飯を食べて、テレビ見て、ちょっとゲームして、本を読んで、寝る、という極めて健全な生活を送っています。忙しい時ほどペースを崩さずただただ無心に生活のリズムを刻んでいくことが好きなので、いい感じです。ただこのいい感じの時は知らないうちにストレスを溜めてしまっていることがあるので気をつけたいです。

 おわり。

不安のようなものの必要性

 真四角に閉じ込めてきれいにラッピングして水平や垂直を意識した写真は記録的な雰囲気が強くなり、20年後も30年後もそのまま在るような雰囲気があって、最近はそういうのばかり撮っていました。

 でも、ざらっとした感じの少し斜めに写った不安を感じさせるものも好きです。

 読んで楽しいのは娯楽小説。読んで不安になるものは純文学という言葉をどこかで見た気がします。

 唐突ですが、この前自転車の上で、わたしは今結婚していますが、自分か奥さんどちらかが必ず先に死ぬことになると思うのですが(幸か不幸か事故などに巻き込まれて同時に死なない限り)残された片方はどんな生活を送るのかなと想像していました。

 これはもしも起こる最悪の場合でもなんでもなく、必ず起こる、ほぼ100%起こる未来です。

 おそらくこのことについてわたしと奥さんが食卓で話すことは近い未来では、しないでしょう。

 でも心のどこかでこの必ず起こる未来を受け入れる準備を少しずつやらなきゃいけない気がしています。

純文学の必要性とは、こういうことに通じていると思います。

 おわり。

境界

 今日は境界を撮ってみようと思いました。
 写真を撮る時、もちろん『いいなぁ』と思うものを撮るのですが、それだけだと面白くないので、一つテーマを決めて撮るようにしています。

 境目は分かりやすいもの、控えめなもの、言われないとわからないもの、様々。

 境界線を意識するとちょっとだけ景色が変わって見えました。

 おわり。

 下の画像の上ふたつは最近取り組んでいる、モノを平面的に撮って(街灯はちょっと失敗しているけど)既存の意味が薄れて違う感じや意味がちょっとでも感じられたら・・というもの。

 その下は今の自分が好きな感じのもの。

等価

 1月28日は誕生日でした。44歳です。

 特に変わったこともなく、今日も四角に取り憑かれた感じでした。

 四角の枠の中に収めることは、モノを等価に扱う道に通じるているような気がします。

 対象物の個性が残ったまま価値が揃う。優しい理想論の世界です。

1:1

 カメラで写真を撮るとき、縦横比を選んで撮ることができます。

 一般的な比率は一般的なL版プリント比率の横3縦2でしょうか。

 あと、4:3、16:9など。

 写真を撮るときファインダーを覗くと、3:2の枠の中や1:1の枠が現れていて、その中に写真になる可能性がある対象が切り取られています。

 不思議なことに3:2の枠と1:1の枠では同じものを見ていても受け取る感じが全く違います。面白いほど違います。

 カメラを構えていなくても真四角で切り取る構図を目が探し始めて、世界がちょっとだけ今までと違って見えます。

 

ごろごろしている休日。

 今週、なんか仕事が忙しかった。
 土日に特に予定もなく。
 今日は寝っ転がってスマホゲームをしていたら1日が終わりました。

 ある意味、最高の休日でしたが、まあ何もやっていないので心の充実感は皆無で、乾いた感じです。

 今日の写真は夜8時ごろ近所のスーパーに買い物に行った途中に撮ったもの。

 この星の写真とかちょっと整えてTwitterに上げようと思いましたが、ちょっと手ブレしているんですよね。星をもうちょっと引き立てるように現像しようとすると余計手ブレが目立ってしまって。ボツとなりました。撮り直す為にもう一度寒い外に出る気概もなく。

 はい、今日はそんな日です。

 そろそろ自動車の運転免許証の更新に行かなきゃいけませんが、2月の末まででまだ余裕があるし、明日雨予報だし、行かないかなぁ。

 かなり緩んでいる現在です。あ、カメラの掃除しよう。

 おわり。

今年京都雪多くない?

 今日、仕事が終わって17時に帰る時、吹雪いた。

 一瞬で道路に雪が積もり、ロードバイクを途中押した。

 そしていつもの京都御苑へ。

 やばいー。

 雪サイコーって思いながら写真を撮りまくり。

 しかし雪はロードバイクどっかに置いて電車で帰ろうかなレベル。ちょっと怖い。

 このまま降り続いて欲しい気持ちと、でも帰れなくなるから止んでという気持ちを抱きながら、とりあえず写真は撮る。

  30分くらいしたら止みました。よかった。ロードバイクで帰れる。自転車だと30分だけど電車とバスなら50分かかるから。

 そんな雑念を持って撮影していたからか、途中でカメラの撮影設定が変になっていて、ほとんどの写真がダメダメ。なんてこった。

 まあ、そういうもんですね。

 おわり。

写真の編集

 朝。京都御苑です。全体的に霧がかかっているように見えます。

 でも実は撮った写真そのものは下の画像です。実際霧のようなものがあるのは上の方だけ。

 この写真を見た時、木の上の方の太陽の光が差し込んできている辺りが木から出る水蒸気か何かでいい感じに煙っていました。他は正直ごちゃごちゃしてよくわからない感じなので、下半分はバッサリカットしました。

 そして変に色が乗っているよりも、モノトーンに近い方が少し幻想的になって面白いので、少し彩度を落としました。

 去年の秋くらいにネットニュースで読んだ記事ですが。ある人がまだ紅葉していない山の写真の彩度を思いっきり上げて、真っ赤に紅葉したウソ写真をSNSに投稿し、それを見てその場所に足を運んだ人が「騙された!」となった。みたいなのを読みました。写真を編集・現像する人は誰でも何かしらの線引きをして人目に触れる場所に投稿すると思います。わたしは自分の写真を見た方が不利益を被る可能性があるものは絶対にあげないようにはしています。可能性があると分かっているということは明確に悪意があるということですので。なので、もしわたしがパソコン上で本当の見頃はまだまだ先なのに真っ赤に紅葉している写真を作ってしまったとしても、それをSNS上げることはありません。

 話がそれました。

 あと、霧の雰囲気を強調するために、シャープさを少し落としわざとぼんやりとした感じに。写真というとくっきりはっきり写る方がいいイメージありますが、わたしは少しぼんやりさせる方が好きです。ギラギラしたダイヤモンドの輝きより真珠のうっすらぼんやりフワッと光っている感じが好きなので。この辺りは荘子の影響ですね。

 おわり。