陽が沈んですぐの京都御苑の森。
先日ポートレート撮影をしましたと書きましたが、実のところポートレート撮影が何なのかよく分かっていませんでした。でも今Googleでこの単語を検索して一つの大きなヒントを得ました。
『被写体の意識が撮らせる意志を持っている』
という、とても分かりやすい一言と巡り合いました。
なるほど!
でもキノコに撮らせる意志が存在するのかどうかと言う途轍もない問題が出てきてしましました。
わたしは全ての物事において『ない』とは断言しない派ですので。
陽が沈んですぐの京都御苑の森。
先日ポートレート撮影をしましたと書きましたが、実のところポートレート撮影が何なのかよく分かっていませんでした。でも今Googleでこの単語を検索して一つの大きなヒントを得ました。
『被写体の意識が撮らせる意志を持っている』
という、とても分かりやすい一言と巡り合いました。
なるほど!
でもキノコに撮らせる意志が存在するのかどうかと言う途轍もない問題が出てきてしましました。
わたしは全ての物事において『ない』とは断言しない派ですので。
今日は満月。月の写真を撮りました。肉眼で見ると明るく白く美しく光って見えますが、写真で少し暗く写すと月面のクレーターが生々しく見えます。
こう写真に写すことができると、わたしは京都在住ですが、大阪や名古屋より月の方が近くに感じている今日この頃です。コロナ禍で遠方への行動が制限されがちな今は特に。
月の地名に疎いのですが、何かのネット情報を参考にこの写真の特徴的な地形なんかのお名前を調べるてみようかなと、勝手に自分への宿題にしてみようと思います。
右下あたりの大きなクレーターは分かりやすいので今ネットで調べました。
『ティコ』直径85キロメートル。名前はデンマーク貴族の天文学者、『ティコ・ブラーエ』(1550年くらいから1600年くらいの人。)に由来するとのこと。
ウィキペディアで読んできるのですが、この人物めちゃくちゃ面白そうです。
月が運んでくれた新しい出会いです。
しかし、谷やら岬やら海やら、とにかく月に名前が多い。古代から月を見て研究してきた方々のいろんな思いが凝縮されている様。そのような事柄には引力がありますね。
おわり。
今日は京都御苑で本の感想を交換したり、ポートレートを撮ったり。
切り株の中にまだ雪が残っていました。
去年ある劇団さんのスタッフでご一緒させていただいたせいなさん。
せいなさんは旅がお好きということで、『旅』の雰囲気がちょっとでも感じられる写真を撮影しました。
もうちょっとわたしが紡がれていく写真が持つ物語性というものを感じとれたらなと思いました。
そうすればもっと写真と写真の間に何かしらの筋を通すことができるような気が。
どんどん精進あるのみです。
あとカメラ機材の性能(手ぶれ補正とか)を過信し過ぎたとかなり反省しています。とりあえず撮影する時重いリュックは下そう。そうしないと脇が締められなくてブレる。
しかし、即興劇を作っていっているような楽しい時間でした。
ではまた。
令和4年1月14日金曜日の朝6時半。朝起きたら天気予報通りの雪。
桂川周辺。日本昔ばなしな雰囲気。
いつもの通勤風景がガラッと変わって楽しい。
阪急電車嵐山線。
同志社大学近くに烏丸今出川の交差点。
京都御所の敷地内を寄り道。
すごい雪。
積もったねぇ。
今日は久しぶりにPanasonicのS1というカメラを持って出勤した。
最近SIGMAというメーカーのカメラばかり使っていたから。
カメラにはたくさんのボダんやダイヤルが付いている。それをパパッと操作できないと撮影が辛気臭いものになるから体に馴染ませとかなきゃならない。カメラに興味が出る前、他の人が持っているカメラを横目で見て、なんでこんなにたくさんの触るとことが付いているんだろう、あんなに付いていて本当に必要なのかな?と思ったことがありますが、必要かなと今は思っています。もしこの物理的に触れる部分が少なかったらメニューボタン押して、このカテゴリーの何ページ目にあったなぁとか思い出しながら探さなきゃならなくて、簡単にいうと時間がかかります。
1日の終わり、脳の働きも鈍くなる夜の寝る前、頭を空っぽにしてこの機械の塊を持ってちょっと操作すると、なんか車を運転しているようなそんな気分になります。変な例えですが。車を自分の思う通りに動かすことと、カメラを自分が思う写真を撮るために光の加減、被写体との距離、いろんなことを感じてカメラの設定を瞬間的に変更するとことか似ているかも。
最近、淡いひかりに惹かれます。鮮烈でぎらつく光じゃない。真珠の表面にあるうっすらとぼやけたような光。
輪郭線をぼかす滲んだ光
ちょっとだけ現実感が薄れてくれる。
遠い記憶が少しだけ近くなる。昔の少しだけピントが外れたフイルムカメラで撮られてような写真の感じ。
昨日昔からの知り合いの脚本・演出家の、まあ、元劇団ZTONの河瀬くんですけど、大阪で芝居についてちょっとお酒を飲みながらお話をしていまして。
わたしは現在演劇をつくってはいません。どこにも属していません。専ら観るだけです。だからはっきり言って全く忖度なく喋ることができます。わたしは人については悪くいうことはないようにしようと思っていますが、作品の感想については例え酷い言葉を使おうと嘘だけはつかないように心がけています。
今日はわたしが演劇作品が良かったどうか、どんなことで決めているのか少しお話ししてみます。
まず、映像化された舞台でない限り、記憶を辿ってその演劇作品をもう一度味わって感想を言葉にしようとします。
この時一番最初に思い出すのは「余韻」です。観終わった後のまだ言葉にならない、整理できていない心の感じ。この余韻が全てだと思っています。余韻が好ましいものであればわたしにとっては良い作品ですし、逆に余韻が後味悪く感じるものであったり、余韻そのものがなかったりした作品はわたしにとっては悪い作品です。
胸が熱くなってしばらく席から立ちたくないとか、わたしにとっては最高の余韻です。そんな作品に一年に1回でも出会えれば、それはもうとても幸福なことです。
そのくらい揺さぶってくれる作品はやっぱり生き方に関わってくるものが多いと思います。生き方とはつまり哲学です。哲学がない、例えば物語を面白くみせる為のテクニックや仕掛けがメインの作品などには心が動くことはありません。あー、そうひっくり返るんだ、なるほどーという感想です。
わたしはいつだって揺さぶられたいので、作品に哲学は必要だと思います。
今日の日常の一コマを添えて。
今日は京都市京セラ美術館へ、第8回日展京都展を鑑賞しに行きました。
まだ衝撃が強すぎて感想が言葉になりません。
言葉に変換される前の感触をしばらく味わおうと思います。
1月15日まで。
本日は1月8日土曜日。京都は昨日までの寒さがすごし和らぎ日中は過ごしやすい気候でした。寒いけど。
そして一旦落ち着いていたコロナ感染者数がまた急激に増えていて、この先一体どうなるのだろうという感じはちょっとはあります。
わたしは大学に入学したのが1996年で、1998年にWindows98が出ましたから丁度パソコンというものが学生にも普及し始めた頃でした。大学の講義でも情報の取捨選択の重要性を先生方はよくお話しされていた。インターネットを使って世界中の情報を時間差無しで得ることできる時代が来たと。無数の情報の中から正確で重要な情報だけを抽出することが大切だと。
その話を聞いていた時わたしは思ったのです。世間話レベルの話題ならば色んな話があって当然だろう。でもとても大切な話題の時は、その分野のスペシャリストがしっかり表に出てきて正確な情報をわたしたちに教えてくれるはずだ、と。
すみません先生。やっぱり自分で探すしかなかったです。
(写真は今日ちょっといい感じの撮れたので、いい感じに並べただけです。意味はありません。)
カメラを使い始めてまだ1年半くらい。この機械を思い通りに使いこなすことができたならばさぞ楽しいだろうと、でもなかなか思い通りにならない不確定要素があるからこう飽きずに写真を撮る行為が続いているのだろうとも思っている。
写真は人の記憶に密接に結びつく。記憶と写真の関係は、葡萄とワインの関係に似ていると思う。素晴らしいワインは葡萄そのものよりも葡萄らしさを感じることがある。変な話だが。曖昧な脳内の記憶が写真という物質となった時、記憶以上の記憶となったと感じる場合がある。本当に変な話だが。
例えばこの電気ストーブの写真。今もわたしの目の前にあるが、わたしの目が捉えている絵と写真の絵は違う。実物はもっと薄い感じだ。写真の絵は何か意味深だ。そして写真の絵の方が寒い室内を静かにほんのり暖かくしてくれている感じがするので、そのように撮った。実物が持つ様々な要素の中からわたしが残したい要素だけをなるべく残し、強調したい部分をほんの少し強めたら、こうなった。つまり凝縮させた。
ん。ならば表題は写真とワインではなくて、写真と濃縮ジュース。あ、濃縮ジュースの方がしっくりくる気がする。ワインと書いてしまったのはカッコつけたかったから?ジュースだ。ジュースがいい。